Monday, August 25, 2014

ISを巡る言説の問題によせて

twitterでイラク・シリアにおけるISの論理を紹介している中田先生や内藤先生を、「反米」や「IS擁護論」、「相対主義」に矮小化して批判し、ISの処刑方法の残虐さだけ着目し、イスラムフォビアを再生産するだけのツイートが散見されるにつけ、そうじゃないだろうとの思いが募る。修論で取り組んだり、今考えている人類学的な問題と重なるので書いておきたい。
 一見寛容な説明として、「彼ら(IS)はイスラームの名を借りたテロ集団で、多くのムスリムはそうではないんだ」、という語り口がある。これは、理解不可能なものをテロとして切り捨て、イスラームをその理解不可能さの原因としないという点ではイスラームに対して寛容である。実際現代の多くのムスリムもそのように語るだろう。
 しかし、こうした語り口が排除する部分にも目を向ける必要があるという議論をしたのが人類学者のタラルアサドだ。何を排除しているのかといえば「世俗主義」の外部だ。30年戦争以後、西欧で生まれた思想である「世俗主義」は残虐性の排除を掲げ、近代民主主義国家の原則となってきた。「世俗主義」のもとでは、宗教は私的な信念の問題とされ、公的な場には持ち込まないことを是としてきたのだ。『世俗の形成』では、寛容を自称する「世俗主義」のもとで行われる様々な形の暴力について考察されている。
 これを踏まえれば、ISの残虐さを攻め立てるだけではなく、彼らの論理にも目を向けると同時に、「世俗主義」下の暴力にも目を向け、「われわれ」自身の認識を問い直さなければならないはずだ。
 とはいえ、ここが誤解を招きやすいので書かなければならないが、アサドは世俗主義の暴力が他の暴力と同列だとか、世俗主義とは別のやり方がある、と言い切る相対主義の立場にたっているわけではないということだ。彼自身も「世俗主義」の内部に留まっていることを自覚している、というか自覚しているがゆえに、より寛容な道を探ろうとしているのである。ハーバーマスも近年、宗教と社会の相互学習を提唱したが、これはアサド的な世俗主義批判を経由してこそ成り立つ話だ。
 というわけで、はじめに戻れば、中田先生や内藤先生のツイートを矮小化することは、「世俗主義」の自己認識を保持したまま、それに当てはまらないものを排除する短絡的な思考にすぎず、ISの論理にも目を向け、同時に「世俗主義」を問い直していく姿勢が必要だ。(ついでに言えばこの姿勢こそが、人類学で近年提唱されている、「存在論的転換」や「ポストプルーラル」なんだ、といいたい。)

この話のとっかかりとして、『グローバル権力から世界を取り戻すための13人の提言』の中のアサドのインタビューは読みやすいのでおすすめ。

追記

ところで、あと一つ問題なのは、「残虐だからけしからん!」というわれわれの非難のうちに、「既存の国家間秩序における利益を脅かすからけしからん」が入り込んでること。イラン革命が世界で受け入れられないのもその点だし、ISは一国革命にとどまらないからなおさらなんだが。
たしかにわれわれのいまある状態が世界における富の不均衡に成り立ってるとして、それを維持しようというのもわかるが、ならそれを主張して、残虐をなくそう、とか自由だ民主主義だ、と美名の下にごまかすべきじゃないと思う。